突然ですがここ最近、頭の中で回っているのは、ジャイアント馬場さんの入場テーマ『王者の魂』。
今年の1月31日に馬場さんの命日に、ユニクロから届きました。なんて記事をふわ~っと書いてましたが、まさかその数か月後に“ジャイアント馬場”という一人の男のことばかり考える状況になってしまうなんて…。
そう。あの郷土の英雄・ジャイアント馬場さんを、出身地である三条市の名誉市民にする動きが活発化しているとのこと。
それを地元の新聞で知ってしまったからであります。
今年の8月までに20,000人の署名を集める事を目標に、「三条の英雄・世界のジャイアント馬場を名誉市民にする会」という素敵な有志が活動されているとのこと。
過去にも「馬場さんを名誉市民へ!」という声は上がっていた事はありましたが実現には至らず…。
私は地元の方々(職場の同僚や仲間など)に今回の署名活動の事を伝えると、「え?あの馬場さんだよね?既に名誉市民だったと思ってたよ」なんて返答が多いのなんの。
つまり、御逝去されて17年も経ってはおりますが、三条市民にそれだけの影響力を与えている存在だったんだな~、と改めて実感。
(おそらくその感覚は、市外県外の方々も備わってらっしゃるのでは??? )
そこで気になった事が2点。
まず1つめは、
【なぜこのタイミング(亡くなられて17年経過した今)で、このような機運が上がってきたのか?】
答えはいくつかありますが、まずは昨年に『1964年のジャイアント馬場』や『巨人軍の巨人 馬場正平』といった書籍が発行され、新たなる馬場さんのエピソードや記録が発表された事。
そして馬場さんの同級生や先輩・後輩の方々が高齢になってこられた。
…などの様々な要因の積み重ねにより、有志の方々は「今しかない!」と行動に踏み切られたそうです(熱すぎる!)。
そして気になることの2つめは、
【馬場さんが名誉市民になることで、どのようなメリットがあるのか?】
まずは三条市の広報・宣伝活動に大きな影響が出てきます。
「ジャイアント馬場」の知名度は、全国レベルで見ても高く、広報力への貢献度はかなりのものと容易に想像できます。
また三条市出身の初のプロスポーツ選手(野球)と顕彰することで、現在海外リーグで活躍しているサッカーの酒井高徳選手など後に続く三条市出身のプロスポーツ選手が三条市に貢献できる道を開くことができる、と。
結果、今のいたいけな子供達の目標にもなるはず。
そんな背景を改めて知り、私もこの署名活動を応援させて頂きます。
先日、近所のスーパーに署名用紙と備え付けの箱がありましたので、早速私とゴク妻の名前で署名させていただきました。
(ゴク妻とは温度差がありましたが・・・w)
しかし嬉しかったのは、私が書いた用紙を入れようとした時点で、結構な枚数が箱の中に入っていたんですよね。
そのことで、8月までの20,000人達成への手ごたえを感じましたよ。
あ、そうそう。
オンライン署名サイト「change.org」で「三条の英雄・世界のジャイアント馬場を名誉市民に!」の署名ページをご確認あれ。
私と同じプヲタの皆様、
私と同じ90年代の熱狂的な全日本信者の皆様、
私と同じ「キン肉マン」マニアの皆様(馬場さんもよく登場してましたしね^^;)、
市外の方も県外の方も、是非、熱き御署名を、よろしくお願いいたしますm(_ _)m
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と、ここまでは模範的で宣伝めいた内容となってしまいましたが、ここからが本音の部分。
ジャイアント馬場さんへの本当の想いをぶちまけさせてください。
以前も当ブログで紹介したこの1枚の写真。
私が中3だった93年4月17日、長岡厚生会館での1枚。
人生で最初のプロレス生観戦の日でした。
こんなツーショットを撮らせて頂いてますが、実はこの写真。
地方大会では毎日行われる日替わり撮影会なのです。
会場への先着100名に整理券が配られて(たしか)、開場と同時にその100人が設営されたリングに佇むレスラーと2ショットが撮れるというファンにはありがたい企画だったのです。
この馬場さんの他にも、故・三沢光晴さん、川田利明さん、馬場&ハンセン組、カンナムエキスプレスと撮影させて頂きました。
ただ地元だった事もあり、圧倒的に馬場さんとの2ショットが多かったかな。(この写真ですが、まさかその6年後にこの世を去るとは夢にも思っていなかった、死から最も遠い存在だった馬場御大…)
正直、馬場さんとは何度も撮ってましたが、その頃の馬場さんは中高生だった私にとっては完全にお笑い要員。
はい…子供だった私は、まだ馬場さんの本当の魅力に気づけずにいました。(お恥ずかしい!)
当時はメインイベントのリングを彩り、ケガの絶えない激しい試合を展開していた、三沢、川田、田上、小橋、ハンセン、ゴディ、ウイリアムス達を瞳に焼き付けるために会場へ通っていた様なもの。
そんな感覚だったので、週刊プロレス内にページを設けられていた“全日本情報局”にあった「今シリーズの各会場の記念撮影選手一覧表」で、また新潟大会が馬場さんだと「え~~~!?また馬場かよっ!一度は小橋と撮りてぇよ!」と憤慨すらしていたものでした。
今思えば、馬場さんは新潟県三条市の出身でしたし、そもそも数年後に死ぬなんて思ってもいませんでし、引退したとしても三条市で隠居されるのかな~、と楽観的に考えてもいたので、「いつでも俺たちの馬場さんに会える」という安心感があったから、「わざわざまた馬場さんと写真撮らんでも…」と失礼な考えに陥ってたのだと思われます^^;
そういえば93年当時、毎週金曜日のAM3:00~5:00まで放送していた「橘いずみのオールナイトニッポン」を愛聴していたものでしたが、彼女は大の馬場信者の全日派。(橘いずみさんは、「女版・尾崎豊」とキャッチフレーズがあったほどのストレートな歌詞を前面に打ち出すシンガーソングライターでした^^;)
そのラジオを聞いていたのは中2~3の頃。(1992~1993頃)
橘いずみさんは、会場にも足を運んでいたレベルの全日ファンだったと記憶してます。私の学校でプロレス好きがいても、その7~8割は新日派でした。それだけに、この橘いずみさんの存在は心強かったものです。
彼女がよく番組内で言われていたのが「とにかく馬場さんの笑顔が好き」とのこと。
オールナイトニッポンの最終回には、今まで会場で撮った試合中の馬場さんの写真(試合中なのに何故か笑顔のものも含む)を、番組宛てに彼女へのファンレターとともに送った淡い思い出がありました(笑)
それから時を経て、運命の1999年1月31日を迎えます。
専門学校から帰宅し、自分の部屋で過ごしていた午後7時頃と記憶してますが、母親からの「馬場さん、死んじゃったって~。あと、ごはん出来たよー」という声に耳を疑いました。
「馬場さんの死???」
おそらく母親はテレビのテロップで知ったんでしょうが、まだ本格的な報道がされておらず、そのまま晩御飯を食し、また自分の部屋へ戻りました。
ネットの普及がされていない時代。私はとりあえず夜の報道番組までは週プロや録りためている全日のVHSを眺めながら時間を潰していたと思います。
「嘘だろ?嘘だろ?嘘だろ?」
そんな胸騒ぎを抑えるように…。
そして数時間後、最初に私が接したテレビからの宣告は「ニュースステーション」からのものでした。
たしか女性キャスターが原稿を読まれていたと思いますが、何とも言えない衝撃が走りました。
「死」というものからあまりにもかけ離れていたイメージだった馬場さん。
『マジか・・・たった2か月前の98年12月5日日本武道館のリングでは、間違いなく6メンタッグマッチで活躍されていたのに』
それからテレビに張り付き、日テレやフジの深夜の報道番組の馬場さん報道を録画しまくってた私。
翌日は学校をサボり、これまた各局のワイドショーの馬場さん特集の録画を敢行。
コンビニに行けば、馬場さんの訃報で1面が飾られている新聞ばかり。
その中から私は日刊スポーツを手に取り、人生初の新聞を購入する行為を敢行。
(ちなみに次にその行為を行ったのがJ鶴田さんの訃報て…。馬場さん時、鶴田さんの時の両方の新聞は、今も屋根裏部屋に保管してます)
御存命の頃、いくら会場で“お笑い要員”として位置付けていた馬場さんとはいえ、98年の全日初の東京ドーム単独興行には全日ファンとして馬場さんの決断に感動しましたし、解説席での馬場さん節も刷り込まれ、会場の物販コーナーでは椅子にドカッと腰を下ろしサインをしていた姿が焼き付いている。
「この喪失感は何だろう?」
人の死で初めて涙を流した私でした。
そんな馬場さんの偉大さに気づき始めたのが、皮肉にも亡くなってからになるとは…。
馬場さんにはあまりにも多くのエピソード、そして名言があります。
特に名言は「シューティングを超えたものがプロレスである」「裏切る人間よりも、裏切られる人間であった方がまだいいじゃないか、鶴田」など、しびれるモノが多数。
そんな中で私のお気に入りと言えばこちら。
↓
『プロレスに1から10までの段階があるとしたら、垣原は1から5を飛ばして6からの練習しかしていない』
これは98年9月11日・日本武道館大会での特別試合「川田利明vs垣原賢人」について、大会総括をしている馬場さんのコメントを要約したもの。
試合は前半、垣原の打撃ラッシュで川田を場外エスケープまで追いやるも、そこからリングインした川田は冷静に屈伸運動。
リズムを崩された垣原にハイキックや高角度のバックドロップをたたみかけ、最後は渾身の張り手でダウンした体を片エビ固めで3カウントを奪った川田。
この試合展開に馬場さんは、
「川田に蹴られたら(垣原は)ヨタヨタと崩れていく。パーンと蹴られたら、パーンと痛くないように受け身を取らないと。プロレスに1から10の練習があるとしたら彼ら(垣原を含むU勢)は6から10の勉強はしていても、1から5の勉強はしていないんだよ。垣原も高山もリングの上では練習はしてるけど、攻めの練習ばかり。プロレスの上で生きていくのなら、まずは1から5を勉強しないと。良い素質を持っているんだからね」
これはしびれました。
とにかく基本が大事ということ。なぜ、全日レスラーがU系レスラーを撃破しつづけたかの明確な理由がそこに詰まってます。
また今だから着目してしまう部分として「プロレスの上で生きていくのなら」は、色々と考えさせられます。総合で食べて行けずに今も新日本に上がって試合することを余儀なくされた選手もいますしね。
そして、最後に「良い素質」で垣原をしっかりフォロー。
瞬時に、これだけの緻密なコメントを発する馬場さんの頭の回転の速さに脱帽です。
そしてこのコメントからは、プロレス以外の他の職業でも気づかされるものがありますよね。
やはり、どんな職業でも基本が大事ということ。
例えば、馬場さんの故郷である我が金物の町、三条市においては、大小の工場現場が存在します。
工場内で大きな音を鳴らして、機械を動かして金属を加工する事が、プロレスでいうところの派手な部分(馬場さんの言うところの6から10の部分)だとしますよね。
しかし、それと同等…ともするとそれ以上に大事なのが、日々の整理整頓や機械メンテナンスなどの地味な部分(馬場さんの言うところの1から5の部分)となります。ともすると、挨拶なんかもここに当てはまるのかな。
ここをご覧になってる皆様も、日々お仕事でお疲れのことと思います。
そんな中、ちょっとした気分転換に、この馬場さんの「仕事は基本が大事」という考え方を元に、皆様の日々の業務で、馬場さんの言う1~5の部分と、6~10の部分を洗い出して頭の中で整理してみるのはいかがでしょう。
きっと、仕事への取り組み方、意識に変化が生じるのではないでしょうか?
そんな事を考えさせてくれた、私一押しのジャイアント馬場さんの言葉でした(*^_^*)
ということで、人生に影響を与えてくださるジャイアント馬場さん。
彼への恩返しは何一つ出来ておりませんが、微力ながら最後にもう一度言わせてください。
『偉大なるジャイアント馬場さんを三条市に名誉市民へ!』
署名は、三条市以外の方でも有効ですので、よろしかったら下記のサイトの方をチェックを。
オンライン署名サイト「change.org」で「三条の英雄・世界のジャイアント馬場を名誉市民に!」の署名ページをご確認ください。m(_ _)m
最後に・・・可能性に溢れている、これまた大好きな一枚の写真を貼り付けて、ペンを置きます。
ゴクモンキ